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| 男・星野仙一 ドラゴンズにとって最高の監督だ!! |
昭和61年10月29日、星野仙一がドラゴンズの監督に初就任した。
あえてこの「仏滅」の日を選んだらしい。そしてマイクに向かって『覚悟しろ!』と叫んだ。
もちろん選手達に言いたかったのだろうが、それ以上に自分自身に言っていたのではないだろうか!?
会見後、カメラマンから笑って下さいの注文には『笑える心境か!』と怒鳴った。
星野は監督要請を「召集令状が来た」という感じだったと言っていた。
この日から戦場に向かう戦士へと変わったのだろう。
この年は『闘志なき者は去れ!』『ケンカで負けて野球で勝てるか!』という言葉からも分るように、
激しさを全面に出す野球だった。
そこにあったのは中日ドラゴンズではなく、星野ドラゴンズであったような気がする。
選手もコーチもピリピリしていた。見ているファンも同様であった。
星野を知らない記者達は「星野によって中日は潰される」こんな記事を書いていた。
しかし、あれから10年が経ち誰もが認める名監督になった。
今もなお成長していると思う。こんな監督は珍しい。今後、どんな偉大な監督になってくれるのだろうか?
ドラゴンズにとっては、この星野以上の監督はいないだろう。
三冠王・落合の獲得という凄い事をやってくれた。
もっと驚いた事は、星野が一番可愛がっていた牛島投手を交換要員にしたのだ!
星野監督になって、秋季キャンプでは一番張りきっていた選手である。
誰よりも星野を男にしたいと思っていたのではないだろうか?
このトレードの発表から、牛島さんはすごく悩んだと思う。かなりの涙も流しただろう。
そんな中、星野から電話が入った『ネクタイ締めて来い!』というものだった。
男と男の話し合いだぞという意味があったと思う。
そして牛島と会った星野が『俺は星野仙一じゃない!オレは監督としての仕事をしただけだ』と言った。
それから数日後、ハレバレとした表情の牛島が会見を行った。
カメラマンの一番後ろで星野は牛島を見つめていた。目がうるんでいた。
『あの時、知らず知らずのうちに足が動いていた。あいつのドラゴンズでの最後の姿をみたかったんだろうな』
そして、翌日は新幹線のプラットホームまで見送りに行った。そこには言葉はなかった。
新幹線のドアが閉じるまで、2人は見詰め合ったままであった。まるで恋人同士が別れるドラマのシーンの様であった。
『見送りに行くのは当たり前だ。オレだって好きで牛島を出したわけじゃないんだ。ドラゴンズを去るあいつの気持ちは痛いほどわかるんだ。』
今まで、トレードで移籍する選手をプラットホームまで見送りに行った監督はいただろうか!?
星野監督は色紙にサインをする時、必ず『夢』という字を書く。
しかし、この夢とは何か?
そんな質問をされても星野監督自身もあまり答える事はない。
正直、答えが見つからないのだろう。そして、その時々で違うと思う。
監督就任時に1度だけハッキリと答えていたのを覚えている。
『全国の耳目をドラゴンズに集めてやる!それがオレの監督としての夢だ!!』と・・・。
今思えば、選手時代から『全国区』に挑戦してしてきたと思う。
名古屋という地理的に不利に働いていたかもしれない。
しかし、実力&魅力不足が全国区に成り得なかった一番の原因だと思う。
正直言って、星野監督になるまでドラゴンズはいい球団とは言えなかった。
経営方針・フロントの姿勢・選手の意識・野球環境・広報活動・・・。
そこにメスを入れた男がこの星野仙一であった。
ドラゴンズの選手は、後援会やファンから甘やかされていた。
選手は後援者のグチをこぼし、なぐさめられる。だんだん去勢されてしまっていた。
そのため過保護選手が多くなり負け犬になってしまっていた。
そんな中、星野監督は『選手教育しかない』と言う。
『オレはやってみせる。何度も何度も言い、いやというほどグランドで鍛え、本当の野球というものを分らせる』
そして、それでもダメなら『その時は辞めてもらう。弱虫選手なんかに維新が起せるもんか!』
今、ドラゴンズがこんなにも素晴らしい球団になった最大の功労者はこの星野仙一だろう。
理想の監督像は『分らん』と言い続けている。
だからこそ常に新しいもを取り込み、挑戦し続けているのだろう。
挑戦を諦めた時、現状に満足した時、星野監督は星野仙一ではなくなる。
命のある限り、夢に向かって挑戦して行くだろう。
私はこんな星野さんを応援し続ける。なにがあろうとも・・・。
私の選択は間違っていない。
ドラゴンズを選んだ事は正しいと確信している。
本当にドラゴンズに出会って良かったと思っている。
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